昭和42年8月11日 朝の御理解


 皆さんはご覧になったことがありますでしょうが、私はまだ行ってみたことはないのですけれども。二見が浦ところに夫婦岩というのがございます。私は有名ですから写真で見たり話で聞いたりだけはしておりますけれども、実際に見たことはございません。実際に行って見るとそんなたいしたところでもなか、なかなかというくらいらしいですけれども、写真なんかで見ますと後ろにこう日の出が、それをバックに大きい岩と小さい岩がひとつの注連縄がつながっている写真……?めでたい何とはなしに有難い雰囲気というか、感じがございますね。あれがもし、あの注連縄につながっていなかったら、あれはただの石です。特に女岩のほうなんか小さい石らしいですね。まあ言うなら、どこんでん転がっている様な感じですけれども、あれは。男岩、女岩が一つの注連につながっている。そこに値打ちがあるのでございましょう。
 ですから信心をさせて頂くならですね。只おかげでつながっておるというのではなくて、本当に信心をするならですよ。信心でつながっていなければいかんです。でないと値打ちがない。まあこれは値打ちがないと言うこともないのですけれど値打ちがない話なんですけれども。四、五日前、一週間になりますでしょうか。福岡からお参りしてきた方があります。もう十年になりましょうか、かれこれ。ご本人を連れて二人で見えられたのですが。それはここに安い土地があるというわけです。ですからこれを今買っておけば金になるから、買っておけてこう言う。ブローカの方が言うのです。ブローカの方も連れてきておられる。それはとにかく、私、息子が椛目にお参りしておるから、一応お参りして先生にお伺いしてからしょうという事でお参りしてきておる。それはそのお母さん、お母さんもなかなか偉い人ですけれども、そのブローカという人もなかなかタイプのいいですね、まあ言うなら立派な人です。当時外車の大きな車を乗り回しておられるというような、景気の良さそうな顔をしておられました。
 それから当時そのことを神様にお願さして頂きましたら、あのさぎという鳥がおりますね。あのさぎがこう水辺におりたって丁度こんな、格好をして立っておるとです。一本足でこうやって立っている。……?なんかで見ますと一本足をあげて立っている。そして・・?池辺に降り立っている姿を頂きました。この人は大体詐欺のような事でも平気でするような人じゃなあと私はだから思うたのです。だからそれを本人が気付いたか、どうか知りませんけれど、今私がここで頂いたのは、さぎの鳥が丁度一本足で立っておるようなお知らせを頂いた。
 だから、今度儲かる、儲からんは別として、それで倒れはせん。倒れはせんという感じでした。一本足で立っているのですから、倒れはないでしょう。十年前の話です。ところがその方はそのひとつのことをするためにはもうずいぶんあのブローカーの方たちはを色々取るんですね、中で、もうこれ以上だせきらんちゅうごとまあ、この話をまとめるためには金も随分かかったらしいです。誰でも欲があります。例えば安い土地を買うて、それが十年後には、十倍にも二十倍にもなるという話ですから、言うなら濡れ手で粟をつ掴み取りの様な感じですけれども、お互いに欲がございますからね。そういう話がありますと、すぐそれに乗ってしまう。楽して儲かられる、いうなら儲け話があるなら、すぐそれに耳を傾ける。
 教祖様はそこの所をですね、一銭、二銭というて貯めた金ならば苦労しておるから、みてるという事がない。けれども、それが濡れ手につかみどりなものがです、苦労していないから、それは又すぐ元に戻るというような意味の教えをしておられます。
 皆さんどうでしょうかね。そういう皆さんに話がある。そういう儲け話があったらいっぺんに飛びつく様な気持ちが皆さんの心の中にありはせんでしょうか。それでは言わば信心ではないですよ。そしてそれが儲かったにしても、濡れ手につかみどりといった様な私は儲かりかたはしてならんと、ね。百万円の宝くじが飛ぶように売れるというのですから、世の中は結局百万円か二百万円で買って何百万と一ぺんに取りたいという気持ちが皆の心の中にどれくらいあるか分かりますよ。ね。先生、宝くじのおかげを頂かせて下さい。御造営のために、お供えしますと言った方があったくらいですから。そういう事を神様が喜びなさるはずがない。神はお供えすれば喜びなさるといったような神様じゃないのです。
 ?さんじゃないけど、いくらいくらお供えします競馬で勝たせてください、儲かる。ね、おかげで儲かるから、それを昔のお金でぱーんと百円、二百円お供えした。それがあの・・? にお参りしますとずーっと石に貼り付けてから立ててございますでしょう。当時の金で、壱万円、・・?儲かったというのです。果たしてそれが、現代に続いておるだろうか。その時壱万円お供えしたのが果たしてどうなっているだろうか。あの時、五百円お供えしたのが、どういうことになっているだろうか。これは本当にもう本当にうたかたの泡の様なものです。うたかたの様なものです。水の泡のようなものです。そん時だけ、一代分限者。それじゃいかんのです。ね、・・?親の代より子の代、子の代より孫の代と繁盛したおかげにつながっていく信心。いや、つながらなければ信心じゃない。信心しておかげを受けてくれよと仰るのは、そういう信心なのです。
 所謂、その注連縄でやはり結ばれておらなければならない。注連縄。注連縄とは私・・?頂きますと、丁度お相撲さんが注連を張りますね。土俵上に立ったとき。あれはたとえば土俵の上で投げ殺されても文句は言いませんという印だそうですね。例え土俵の上で殺されるようなことがあっても、投げ殺されるようなことがあっても文句は言わない、なんだそうですよ。
信心さして頂いてです、ね、例えば、おかげが受けられるとか受けられないとか、そんなことは問題じゃございませんという事、の土俵の上に立ってからには、ね。信心の庭に立たして頂いたが最後ね。信心を頂くということが目指しであって、おかげを頂くということが目指しではない。 そのもう十年前の話ではございますけれども、一週間ばかり前くらい前にやって見えました。先生もう広大なおかげを頂いております。もうあのままその方とうとうお母さんから取るしこ取って、自分もにっちもさっちも行かんようになって椛目に逃避ですね。あの奥さん連れてから、何日か泊まり掛けで修行したいとか何とか言って見えておりました。本当にこの人は詐欺のタイプおかたですよ。椛目に二、三日おられる間にですね。散歩して廻ってから、あの草野辺りの大きな植木屋さんに廻ってですね、植木を沢山出させる話があった人です。金を出さんなしてきちゃる……?掛かるのですよ。それは未然に送らんですんだわけでございますけれどね。それはもう本当にこの人の口にかかったら買わなければおられん程に上手。詐欺なんかする人はそうなのです。してとうとうその逃げてしまわれたんですよね。何処に行ったか分からんが、最近になって大阪におられるところが分かったんですね。
 ところがですね、成る程、神様が十年前に倒れはさせぬと言うてござったが、それが生きてきたんです。市役所がそれににタッチしていた。ですからそれが生きてきた。そして成る程十年後には大変な金額を握るようになってきたわけです。そこでその人を抜きにして、その話を出来るならしたいというお伺いでした。これは余談ですけれども私がそん時お知らせを頂きましたのは、その詐欺のような人なのですけれども、その人をやっぱりその人をその話の中に入れなければいけないという事です。丁度あのお知らせに風鈴のこの、なんですか、短冊がかかっているでしょう、あれ風鈴がたぶん切れておるところ。これではいくら風が吹いたってチリンとも言いませんよね。短冊が切れておるなら、またここに元に戻してあげて、又何とも言えん風鈴の音色が聞けるのです。いわゆる神の音色とでも申しましょうかね。これはどうでもやはり、丁度その前にその人の身元先も分かっておるし、神様の御都合ですよね。だからそこでこの人はすかんと言う人ですけれども、この切れている、切れておるように見える短冊をもう一ぺんつながしてもらわなければ良いおかげは受けられないという事であった。もうそれを聞いていくら信心の名からなんもんでも、そんなご理解を頂いておるとすぐ分かります。それではそうしますと言って帰られた。その後どういう結果になったか分かりませんけれども、これが一応信心は切れておった。けれどもまた、成る程十年前、神様が言って下さっていたから、やっぱり本当だったという事で信心は有難いと言うのではないですよ、ね。・・・?十年前、こういうことを言って下さっていた。それは本当に神様て有難い。親先生は素晴らしいと。そんなことではないですよね。信心とは。
 問題は、その十年間が大事なのです。その十年間が本当言うたら、注連縄でつながっていやあの問題はどうでもよい、死んでも。いやそんなことは問題は致しません。そういう事を縁に十年の信心が続かせて頂いておって現在、そういうふうおかげにになってきておる。私は本当の神様に喜んで頂けるおかげというものが頂けると。よしてそれがですよね、そういう金が手に入りそして例えば何がしかのお供えも出来る。それだけではおかげではないです。お互いの信心もですね、どうでも一つお繰り合わせ頂きまして、二見川の夫婦岩ではないですけれど、あれが注連縄でつながっていなかったらです、もう値打ちはないです。何処にでもある石なのです。それが信心でつながって、信心とはままよという心なのです。
 信心しておかげ受ける受けないというのことは、あなたまかせ。おかげ受けなくても、文句言うような事では。おかげそれが目的ではないのだから。十年前なら十年前に信心を分からして頂いて、所謂、昨日の朝の御理解ではないですけれども、どういう中にあっても、自分が助かっておるというような、おかげ頂かして貰うという事が、信心であり又値打ちなのです。お互いが信心でつながっているようであって、果たして注連縄でつながっているか。お参りしているからつながっているのではありません。一切の事、自分の思うようになるとか、ならないとか言うような、おかげにつながるというような事ではありません。神様におすがりをさせて頂きお願いをしたら最後、どうでも良いというような、もう貴方にお任せするという、土俵の上に立った力士の様な気持ちがですね。私どもの心の中に育っていきおるならば、貴方の信心は、二見が浦の丁度注連縄がかかっておるように、それは必ず天地の親神様のバックアップが素晴らしい。陽々とした海の彼方から、太陽があがる。それがこちらから写真に写しますとです、その夫婦岩がもう、神々しいまでに見えますように、私どもの信心も天地の親神様のたとえばそういうチャンスがある、時期がある、その時期を頂かして貰うために、そういう信心を持ってつながっておらなければならないという事でございますね。どうぞ。